# 象列車 - 実話 - Elephant Train - True Story - ## 小学1年生の思い出 終戦の年、私は小学1年生になった。 (当時は国民学校と呼ばれた。) 1学期はそれなりに楽しく過ごした。 2学期が始まって大変驚いたことを、今60年近く経っても(現在84歳)はっきり覚えていることがある。 それは、習字の時間に墨を濃く沢山するようにとの言葉に何が始まるのだろうと、一生懸命墨をすった。 先生は国語の教科書を開いた。 先生は1ページ目を開き、ハナ、ハト、をとばし、2ページの ニッポンノハタバンザイ バンザイ、 を墨で塗るようにとのことだった。 つい昨日までいたずらもできなかった教科書にです。 次ページの ヘイタイサン ススメ ススメ トテチテタ トテチテタテタ、という 軍服を着て鉄砲を持ったヘイタイサンも塗りつぶしたのです。 先生は一言「ニッポンガマケタカラデス」と言った。 あの記憶はいつまで経っても新しい。 大好きな美しい教科書が次々と墨で塗りつぶされていき、私はとても悲しかった…。 ## 2年生から5年生 やがて2年生になり、新しい教科書はどんなのがくるか、楽しみだった。 もう墨で塗りつぶさなくてもいいはずだ。 ところが、受け取った教科書は新聞紙(今のよりガサガサ)のような、字も細かで絵はひとつもなく、 おまけに家に帰ってから教科書の大きさに切ってとじてくるようにとのこと。 あんなにがっかりしたことはない。 (ここまで秋田県大館町(今は市)に住んでたとき。) 3年生のとき父の転勤で山形県酒田市の小学校に転校した。 酒田の人々は暖かかった。 戦後ということもあり、クラスの雰囲気も和やかで、ジュースや肝油の給食(栄養補助)として、おいしくいただいた。 まだノミ、シラミは完全に退治されておらず、私たち小学生はたびたび D.D.T. を身体中に振りまかれた。 髪の毛も真っ白、家に帰ると、母がいつも驚くほど歩くと部屋の中に D.D.T. がこぼれ落ちた。 それでも平和はいいと、子供心に思った記憶がある。 さて、生徒の数が増え、1000人を超えた我らの小学校は、一部新学校に移ることになった。 私は松林に建った新校舎の近くに住んでいたので、当然そこに入ることとなった。 5年生の2学期からである。 松林に建てられた校舎は、当時2校舎だけで設備もなくグランドもなく、 ドッヂボールをすると松の木に当たりキャーキャー騒いだことなど、 また先生が昼休みにはおにごっこして遊んでくれたことなど、楽しい思い出がある。 新しい学校には県で最初といわれる立派な給食室が別棟に立てられ、私たちは他校にはない完全給食だった。 食糧難を知っている私にとって毎日がごちそうだった。 給食の様子を県内の他校の先生がたびたび見学に来るようになり、にぎわった。 ## 6年生 - ぞう列車